パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です。

憂い逃走中

50年も自分の身分を偽って生きていくというのは、いったいどんな気持ちだったんだろう。自分に対してどれだけ心を開いて接してくれる人間に対しても、信頼を寄せてくれる人間に対しても、自分が何者であるのかを遂には知らせることができないまま付き合っていくのって、なんだかすごく寂しいよなあ。

嘘をつき続けて、いつしか嘘に慣れて、嘘が染み付き真実さを帯びてきて、なんだかこのまま別人になれるような気がして、でもたった一人、自分だけがずっと嘘に気が付いている状態は、実はすごく苦しかったんじゃないかな。それとも嘘をついている時間があまりにも長かったせいで、すっかり平気だったのかな。

50年間で出会った人の中で、きっと信じたい人だっていたはずで、信じてほしかった人だっていたはずで、全てを打ち明けたいと思うほど、愛してしまった人だっていたはずで。平凡な私がたった二十数年間生きてきただけでも、人を信じたり信じてもらったり好きになったりなられたりするのだから、彼だってきっとそうだったに違いない。

六畳一間、必要最低限の生活と労働と共にあった日々は、どんな様子だったんだろう。分つことのない喜びや悲しみをたった一人きりで抱えて生きていくことは、果たして独房に葬られることより幸せと言えたのだろうか。死期が近づいていることを悟り「最期は自分の名前を打ち明けたい」と思い至ったのはやっぱりもう、他の誰でもなく自分だけがいつまでもその嘘を許さなかったからなのかな。事件が風化されて警察の手から逃れたとしても、ずっと自分だけが自分のことを責め続けていたからではないか。ずっと忘れられなかったのは、自分だったのではないか。

今際の際に本名を打ち明けて、すぐに亡くなった指名手配犯の半世紀に及ぶ生涯を思う。当時の事件も、彼についてのさまざまな悪行も、その被害を被った人間のこともよく知らない平成生まれの小童は、残念ながら彼の気持ちを想像することは易くない。打ち明けたことで世間を騒がせた挙句、当人は結局全てを語らないまま死ぬなんて、見事なまでに自分勝手な最期だったとだけ思う。

ただ50年間、罪から逃れ続けた罪人でさえ、最期は自分の本当を打ち明ける選択をした。何よりも自分に正直でいることが、人間が求める最もしあわせな生き様なのではないだろうか。