パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です。

おじさんが良性と悪性に二分されるワケ

これは厳密に言うと別におじさんに限った話ではない。経験則上おじさんに見られる傾向が強いと思うのであえておじさんとして分かりやすく書いています。おじさんという存在は、俳優やモデルなどを除き、大多数がハゲかデブか、ハゲながらにしてデブかのどちらかしかいない。ごく稀に、イケオジと呼ばれる類の若作りしたギラギラでフサフサのおじさんも存在するが、それはそれで不自然な感じがぶっちゃけちょっとアレ。西島秀俊は別。あれは俳優だからそりゃあそう。と、ここまでは見た目の話であって、私は基本的に人間の目を見て話すのでどんな姿形をした人間に対しても、特に関わり方や印象は変わらない。人間は一人残らず老いてやがて死に至るので、かえって老いに抗わない人間のほうが好感さえ持てるほど。但し最低限度の清潔さ(身だしなみとして常識的な範囲の)は、ハゲもデブもハゲながらにしてデブも持っていてほしい。さておき、ここからおじさんを大きく二分した際に「良性」か「悪性」かで分かれることが明らかとなった。最近またさまざまな種類のおじさんと接していく中で、わたしにとっての「良性」と「悪性」の最適解が導き出されたのである。それは、良性のおじさんは謙虚であり、悪性のおじさんは傲慢であるということ。この日本における男性という存在はまだ、女性よりも社会的地位が高く保たれていることに変わりはない。昨今、いろんな活動団体や政治家が女性の社会進出を促しているけれど様々な要因で男女の性差は簡単には埋められないといった諦念をも同時に感じる。そのため女性よりもまだ比較的責任の重い仕事を任される機会が多いので、仕事に対するプライドも相応にあると思われる。責任の重い役割を任せられる人間には役職がつき、徐々に年齢も上がり幅を利かせられるようになってくると周囲には権力の弱いものや、若人が溢れかえる。口を揃えて力あるものをおだてあげ、なんとか取り入ろうとする強かな人間も擦り寄ってくる。そこで分かれるのはその明らかな「ヨイショ」たるものを間に受ける傲慢なおじさんと、さらりと交わしながら謙虚であり続けるおじさんだ。私の人生のテーマである「粋-人情の機微に通じあか抜けているさま」を持っているのは、まず間違いなく後者なのである。謙虚な良性おじさんは、場合によっては尊敬に値し、場合によっては好意を抱く対象ともなり得るくらい魅力的だ。人間誰しも自分を否定しないYESマンが周囲を囲っていたら、否応なく勘違いしてしまうもの。自分が一番可愛いのはきっと歳をとっても変わらないからだろう。ただそれらを甘んじて受け入れることなく自分を律し続けられる人間こそ、真に素敵なおじさんと呼べるのではないだろうか。ただ歳を重ねるたびに上がる地位に相反して、中身はそこまで変わらないことに戸惑いながらそれを目下の人間に悟られまいと、傲慢さを身につけ気を張っている悪性おじさんには少々同情する。いくつになっても少し格好がつかないような、どこか後ろ暗さがあるような人は少なからず弱きものの立場に立って物事を考える想像力も持ち合わせている。だからこそ、良性のおじさんは謙虚さを忘れることはないのだ。最期、周りを見渡したとき人が残るのはどちらだろうか。答えは皆まで言わずとも。私の父は、社会人一年目の頃わたしにこう教えたくれた「いつでもだれよりも頭を下げろ」と。実るほど頭を垂れる稲穂かな。