パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です。

選りすぐり

ぐったりと肩を落としながら、駆け足でバス停に向かう朝も、くたびれて重くなったからだを座席にあずける夜も、随分と慣れてきたところ。まだまだ道半ばで、息を切らし立ち止まる日もあれば、自分を奮い立たせながら歩を進める日だってある。一年また一年と、歳をとるスピードは着実に速くなっているようです。0〜20歳 までと 20〜死 までの体感時間はおおよそ同じだという話をどこかで聞いたこともある。きっとこの速さは日々を懸命に生きている証にちがいないんだろうなんて言い聞かせながら、今日もまたいつもの道を。ゴールが定められてる毎日は、迷わず歩けて心地がいい。

24歳、それは20代前半最後の年。なんだわたしも歳をとるのか、といつまで経ってもどこか他人事のように思ってきたけれど、徐々に遅れてやってきた精神年齢もようやくそこまで追いついてきたみたい。わたしの心は永遠の17歳、とか最近さすがに無理もある。ティーンエイジ特有のはじけ飛ぶような輝きは失われつつあって、ある程度の出来事は「経験済」の判を押されてしまった。もう些細なことでうろたえたりしないし、容易く人前で泣いたりしない。この精神を保ったまま、17歳の日々を過ごしてもひどく退屈で物足りないんだろうと思う。あの頃は手に取るすべてが新鮮で、輝いていて、いつも少しおびえていたのに。「経験済」のまいにちは繰り返され、磨かれてゆくのか。僅かな「未経験」を見つけるための人生か。

2年前の私はいう「バースデーケーキの上で揺らめくロウソクの本数には興味がない」と。そんな悠長なことを言っているとあっという間にケーキの上を埋め尽くして、たった一度吹き消したくらいでは消えなくなってしまう。相変わらず歳をとることになんの抵抗もないけれど、そろそろお肌の曲がり角がどうとか、傷が治りづらいとか、あの子も結婚したの?とかもう二人目もいるんですか?とかおまえはいつ結婚するんだとか、ほっとけよとか、何歳までに◯◯を成し遂げたいとか、脂物は翌日に響くねとか、膝が痛いとか、腰が痛いとか、そんなことばかり話題になったりするのでしょうか。

この歳になると、この先の人生を揺るがす重大な選択を迫られていたりする。そうしてわたしたちは殆どの場合、決定のための十分なリソースを欠いたまま、岐路に立たされることもしばしばある。「選択」は歳を重ねるたびに、厳選されていく。17歳の頃より使える時間に限りがあるから、選択肢はさらに狭まる。選びぬかれた選りすぐりの人々と関わり合い、選りすぐりのものを食べて、選りすぐりの経験をする。選ぶものさしも経験によって培われた自身の感覚で研ぎ澄まされていく。来年には来年のわたしが厳選した毎日が、景色が、関わる人々が、できごとがすべて、そんな分岐点を幾度も乗り越えながら構成されていくのでしょう。一瞬たりとて無駄な選択をしたくない。

できる限り正解に近いものを選んでいきたいと思うばかりだけど、選んだ時点でそれが正解とは限らない。だから人は恐れて、決定に時間を要するのだ。わからないのなら否が応でも正解にしていくほかない、どれが正解かなんてのは誰にもいつまでも分かるはずないから。

いま手元にある毎日が正解かと問われたら、力強くうなずける。なぜならバースデーケーキの向こう側に、微笑みながら祝福を手渡してくれる人々がいるからだ。ゆれるロウソクの灯を一度で吹き消すことができなくなった頃、向こう側には誰がいるだろう。ひとりでさえなければ、正解としよう。

かかってこい、まだ見ぬ未来。