パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です。

白いブラウス溶かしてメロディ

始まる前のあの独特な雰囲気は何ものにも例え難い。今まで感じたことのない空気に気圧されてしまいそうだった。緊張感に似ているものの、どこか浮ついた空気を肌に感じて。ほんとうは一人で見に行こうなんて大それたこと思っていたけれど、きっと入り口のネオン看板を写真に収めてそそくさと帰っていたに違いない。それほど、わたしにとって勇気のいる体験だった。場内に入ったときの物珍しそうにわたしたちに視線をむける観客のおとこのひとたちとどうしても目を合わせることができずに、足元の木の木目ばかりを気にして歩いた。

何も悪いことはしていないはずなのに、ここにいることが間違っている気がしてならなかった。開演20分前に到着したから座席はあらかた埋まっていて、わたしたち5人は前から2番目と3番目の端に別れて座った。

ステージから正面に向かって伸びる花道と予備知識で身につけた円状の回転するステージ、通称「ベッド」があった。ベッドの真正面はもちろん埋まっている。観たあとだから言えるけれど、本当はそこで観るべきだった。

入り口で手渡されたタイムスケジュールに目を通してみると、演者のプロフィール(生年月日、デビュー、スリーサイズ)と時間が記されている。ストリップの演目の数え方が「1景、2景」だということはこの時に初めて知った。場内が暗くなって、音響が響く。想像以上に音が大きくて既に緊張で高鳴る鼓動に、拍車がかかって息苦しい。それでも今から目撃する未知の世界に見入る準備はできていた。

まず初めに伝えるとするならば、「衣服を身につけていない」ことに対する抵抗感や、それを眺める自分に対する羞恥心は1景が終わる前には消え失せる。そこから先は、あっという間に進んでいくステージを目に焼き付けようと必死だった。なぜなら決して写真や映像に収めてあとから見返すことができないからだ。次のストリップ嬢はどんな演出で、どんな衣装を着て、それをどういう手順で脱いで、どんな表情で暗転からあらわれるのだろうと、いつの間にか心待ちにしている自分がいた。

これは当たり前のことなんだけど、ステージにイヤイヤ立ってる人なんてひとりも見当たらなかった。もしかしたら「やらされている人」がいるかもしれないと思っていたのに。もちろんキャリアの差がある故に表情の固さや、表現力の違いはあれどそれもまた一つの個性に過ぎなくて、どのストリップ嬢の目からも誇りや、自信や、力強い意思を感じることができた。そしてなにより自分を一番美しく表現する魅せ方を、全員が心得ていた。

ストリップはアンダーグラウンドカルチャーなんていう類にすることがそもそもの間違いで、まあ、きっと大人のなんやかしらの事情で決して公にはできないものなんだろうけど、いけないものにすることをストリップ嬢たちは決して望んでいない。より多くの人にストリップの素晴らしさを理解してもらいたいんだと、わたしたち(女性)に向けられた眼差しから汲み取れた。

身内以外であれほど赤の他人の、しかも同性の裸体を隅々まで観られる機会は日常生活では一切ない。あるとするならば銭湯だけど、不特定多数の人に「見られること」を意識し、磨き尽くされた完璧な裸体を目撃することはないはずだ。自分との違いや演者一人一人と見比べることもまた一興で、恐らく自分のフェチシズムに合うストリップ嬢が必ず一人はいるんだろう。

終演後、わたしたちは興奮冷めやらぬまま浅草の街を歩きながら、感想を共有して帰路についた。口を揃えて観に来てよかったと漏らし、ストリップ嬢の艶やかな指先の動きを真似てみたりしたものの、到底及ばなかった。

かつて300軒ほどあったストリップ劇場は今や全国で20箇所ほどしか存在せず、現存している劇場も経営難や風営法とのせめぎ合いの中で衰退の一途を辿っている。東海地方唯一の劇場がありがたくも岐阜にあるので、一度足を運んでみようとおもう。