パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です。

ハート救急箱

mew meow — 「包帯を巻いてあげられないのなら、その人の傷に触れてはいけない」

最近立て続けて親しい友人が、私に身の上話を打ち明けてきた。ひとつは、恋人との破局ともうひとつは家族とのこと。私はそっと耳を傾けながら話が終わったあとに差し出すためのありとあらゆる言葉のバリエーションを考えていた。暗い話の最中、不謹慎に思われるかもしれないけれどわたし、こうして他愛”なくない”話を打ち明けてくれたことがすごく嬉しくて。彼女たちはいずれも、以前私の身の上話に耳を傾けてくれたことがあった。そんな時かけてもらった言葉の数々も合わせて、思い巡らせていた。

私たちはもう26年を生きてきて、他人に話すのには憚られるようなエピソードの一つや二つや三つか四つだかは持ち合わせている。だけどそのほとんどが、人に話したところでどうにも解決できないものばかりなんだよね。関係の浅い人間には軽くあしらわれてしまったり、思いもよらない一言にまた別の形で傷つくのがものすごく怖いんだと思う。そんな時に思い出してくれるうちの一人に私が居て良かった。気取らず、構えず、打ち明けてくれる間柄に今でも居られて本当に良かった。

ただ打ち明けてもらうにあたり、受け止める側に勇気が必要な場合がしばしばある。境遇や今まで見てきたものの違いから、価値観のチューニングがそろわないことがある。手に負えない傷に巻き付ける包帯を、持ち合わせていないことがあるのだ。そんな心配をよそに、友人は「話したら、楽になれた」と笑ってた。共感してくれる相手が一人でもいれば、救われることがある。例え、その人が包帯を持っていなくても、薬や、毛布や、あたたかいスープを差し出すことができなくてもただ隣に座って、頷いてくれるだけで癒える傷もあるみたい。

私も人に傷口を見せるときに、治して欲しいと願ったことは少ない。ただ、見せる相手はその傷の痛みを知っている人だけに限る。わたしのこれまでの人生における傷ついた経験の数々は、こうして大切な人の傷に寄り添うためのものだったのかと気づいた(傷だけに)ほんのかすり傷でも、大きさが違っても、痛みをすでに知っていることで救える人が居るのならわたしに残る古い傷痕は、無駄なものではないようだ。だからこれからも、痛い時は痛いって、ちゃんとわたしに教えてね。