パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です。

31025日

今朝はやく おじいちゃんが亡くなった。

思い出話をきいてほしい。

おじいちゃんはわたしが物心ついたときからずっと耳が遠かった。それはもう手の施しようがないくらいに、補聴器などなんの意味も成さないほどに。用事でおじいちゃんのもとへ電話をかけたとき、わたしの名前を名乗ってもかならず三回は聞き返されたし、挙句セールスと勘違いされて切られることもしょっちゅうだった。顔を合わせてしゃべるときも、できる限り大きな声でゆっくりと話さなければならなかった。それでもなかなか聞き取れなくて、とんちんかんなこと言うおじいちゃんをケタケタ笑うわたしを見て、なにが面白いのか分からなかったのだろうけどニコニコと穏やかに笑う耳の遠いおじいちゃんが、わたしはだいすきだった。

若いころは和菓子職人で、たしかわたしが小学校へ上がる頃までちいさな和菓子屋さんを営んでいた。遊びに行ったときによく振舞われた鬼まんじゅうがなにより美味しかったことをちゃんとおぼえている。ほくほくに蒸しあげられたお芋とほんのり甘くてふかふかの黄色い生地。あの味とできたてのあたたかさを、わたしはきっと忘れることはないんだろう。

正月になれば、鏡餅を山のようにつくって近所の人におすそ分けしていた。普段からとても寡黙なひとで、自分から話すことなんてほとんどなかった気がする。和菓子工房でムッと黙りこんだまま機械でこねられる餅をみつめて、適切なタイミングでひっくりかえし、水をさす。できたら板に広げて伸ばし、丁寧に丸めていく。それを機敏にこなすおじいちゃんの顔は驚くほど真剣な顔つきで、口数は少なくともかっこいい職人の顔をしていた。

おじいちゃんの印象的なエピソードが1つある。ヘビースモーカーだったおじいちゃんがタバコが原因と思われる肺がんになって7時間の大手術を受けたときのこと。余命は3年余りと宣告され、手術を受けても長くはないだろうと告げられていた。手術を終えて目が覚めて、親族が見舞いに病室を訪ねたらおじいちゃんの姿がない。忽然とベッドから姿を消していたのだ。7時間の手術を受け疲労困憊した体でいったいどこへ行ったのだろうと みんなで病院中を必死に探し回った。見つかった場所はあろうことか喫煙所。おじいちゃんはまるで悪びれた様子もないまま当たり前のようにタバコを咥えていた。親族はみな呆れ果てたそう。おじいちゃんは懲りることなく退院後も変わらずタバコを吸い続け、あの大手術から15年も生き伸びた 。なんたる大往生だ。

最近は会話という会話をしたためしがない。耳の遠さは数年前よりずっとひどくなっていたし もうほとんどの聴力を失っていたのかもしれない。それでも会いに行くたびわたしの姿を見るやいなや手を振るおじいちゃんの笑顔は、なにひとつ変わらなかった。親族が亡くなるのは21年生きてきて初めてのことで、なんだかあまり実感がわかないままでいたけれど、おじいちゃんの眠るすがたを見たら、ジワジワと悲しみの波が押し寄せてきた。もう少しおじいちゃんといろんな話をしたらよかった。そういえばふたりで写真を撮ればよかった。もっとわたしの話をしてあげるべきだった。そんなありきたりな後悔ばかりが浮かんでは、消えていった。

病気の人は亡くなったら、苦しみから解き放たれ自由になれると聞いたことがあるけれど、耳の遠さってどうなんだろう。変わらないものなのかな。だとしたら、お墓参りに行くたびわたしは手を合わせて、大声で、それからできるだけゆっくりと語りかけなければいけないね。そしたらきっとおじいちゃんは何をそんな必死に喋っているんだ?何も聞こえやしないよ。それより煙草は持ってきたのかい。なんて言いながら、ニコニコ微笑みかけてくれるのでしょう。どうか大好きなタバコでもふかしながら、わたしたちのこれからをしっかり見守っていてください。ねぇちゃんと、聞こえてる?